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任天堂の岩田聡社長の天才的な逸話の数々
先日病気で亡くなられた任天堂の岩田聡社長の、天才的な逸話の数々をまとめてご紹介したいと思います!
■逸話の数々
・17歳の時に、自分で作ったゲームを日本のHP社の代理店に送りつけ、その技術の高さに「札幌にとんでもない高校生がいるぞ!」と驚かれた
この頃から天才プログラマーと呼ばれていたそうです。
17歳の時、私は木登りをして遊んでいたような気がします。
・東京工業大学卒業後、大学時代のアルバイト先だったソフトウエア開発会社、HAL研究所に入社
・その後、HAL研究所は事実上倒産。
その再建支援に乗り出した任天堂が、条件として掲示したのは「岩田聡を社長にすること」
当時任天堂の社長だった山内溥氏が、岩田聡の力を見込んで条件を出したそうです。
・山内氏の目論見通り、岩田氏は高い経営手腕を発揮。
HAL研究所は15億円の負債をわずか6年で完済し、見事に再建を果たした
・山内氏は岩田氏を任天堂の取締役経営企画室長として招き、その2年後に社長の座を譲り渡す
任天堂は、100年以上ずっと山内家の同族経営体制が続いており、全く血縁関係のない入社2年目の人物を社長に指名するというのはまさに異例の事態だったそうです。
出来る人というのは年次など関係なくすぐに頭角を現わすのですね・・・
・ゲームに関心が薄い大人や女性層を開拓する為、携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売
ご存知の通り大ヒットとなり、ソニーのPSPを抑える販売台数となりました。
・社長就任の2002年から2008年までの7年間で、任天堂の売上を約3倍に上げた
営業利益は1,191億円から4,872億円へと約4倍にと急拡大させたそうです。
■名言の数々
・「今あるプログラムを使うと完成まで2年かかります。
ですが私が一から作れば1年で出来ます」
任天堂の「マザー2」の制作が行き詰まっていた時にヘルプとして呼ばれ、この言葉通りに完成させてみせたのでした。格好良い・・
・「昔の国際電話は上空36,000km離れた衛星を利用していたから、返事が届くまで信号が2往復するのに0.4秒のタイムラグができる」
海外の電話が遅れて聞こえる理由は?と聞かれた時のコメント。
もちろん即答だったとのこと。天才すぎてコナンかと思いました。
・「私の名刺には社長と書いてありますが、頭の中はゲーム開発者、心はゲーマーです」
・「私は、子供時代に遊んで面白かったゲームの最新作を、自分の子供に『これはお父さんが遊んだゲームなんだよ』と言ってもらえるように長く(ビジネスを)続けたい」
・「社員に『ありえない』というところまで考えていいんだと伝えたい。
そして今後も、任天堂がそういう会社でいられたらカッコいいなと思いますね」
私は岩田社長が亡くなるまで、こんなに偉大な人物だったことは愚か、情けないことに名前さえ知りませんでした。
今同じ時代を生きている素晴らしい経営者の方々のことをもっとよく勉強して、少しでも自分の人生に取り入れられるよう学んでいきたいと改めて思いました。
最後に、糸井重里氏によるサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で岩田社長のページが特集されていますので、お時間のある時にでも是非見てみて下さい。
http://www.1101.com/iwata20150711/index.html